作者紹介

がっかりしないでね。

 何をどこまで書いたらいいのか、うーん? 悩めるんだけどねぇ。。この世的な肩書きなんてのを並べてみたところでしょーがない(←てゆーか、存在しない(笑))ので、軽ーく、これまでのジンセイの経歴をなぞってみることにします。似たような経験のあるヒトにとっては、お友達になってもらえるいい機会かと思いますので。
 0歳
 1972年 4月17日 05:05 福岡市中央区大道にて誕生。。父方のおばあちゃんが助産婦さんだったとかで、病院ではなく、お家の屋根の下で産声をあげます。。本来の出産予定日は5月5日で、3週間ほど早い誕生だったそうです。。母親いわく、「前の日にお城に出かけて、おむすび食べ過ぎたけん、苦しくなっとったんやろか?」 体重2850g、O型のケツエキをした、「ちょっと小さめ」の赤ちゃんでした。。
 2歳
 両親の間に何らかのトラブルが生じてしまい、父親の姿が消えます。。といっても、別に父に捨てられたわけではありません。。家庭裁判所で親権をめぐる激しい闘いの末、母親がそれを獲得したというだけの話です。。ただ、立派なことに、母はひとことも父親の悪口を言いませんでした。。「あんたにとっては、世界にたったひとりの『お父さん』なんやけんね。」 その姿勢は今でも変わりません。。岩切という私の苗字は、母方のものではなく、父方のものを受け継いでいるものです。。
 3歳 (保育園時代)
 何かに追われるように母は私を祖父、祖母の元、大分へと預けます。。母は、私がまだ幼かったために、どうにかして食わせていかなければなりませんでした。。そのためには、昼間に勤めに出て、その間、お守りをしてくれる気のおけない相手のいてくれるような環境である必要があったわけです。。
 でも、運命の輪はうまく回っていてくれたようで、近所ではあまり類を見ないような、おじいちゃん、おばあちゃんっ子になります。。毎日、夕方になると、おじいちゃんの膝の上で「かきもち」をばりばりいわせながら再放送の時代劇を見ていました。水戸黄門に出てくる「風車の弥七」が、当時のヒーローです。(笑)
 6歳 (小学1年生)
 1978年 6月13日。。引っ越しに伴って、それまで通っていた金池小学校から、中島小学校へと転校します。。住所も、顕徳町3丁目から新川町1丁目に変わりました。。当時を振り返ると、ずいぶん勝ち気で負けず嫌いのやんちゃ坊主でした。。身体があまり丈夫でない母を相手に「プロレスごっこ」を要求するなど、悪の限りを尽くしていたようにも見えます。。「ぜったい猪木みたいに強くなりたい!」 理由は単純だったんですけどね。。
 11歳 (小学5年生)
 剣道を始めます。。「武術」ではなく、日本古来から伝わる「武道」に惹かれていました。。ホントはそのとき弓道をやりたかったのですが、大洲総合運動公園に見学に行ったときに「んー、まだキミには早いねぇ。中学生になったらおいで。」と言われてしまい、近所の中央会館という剣道道場に足を運びます。。師範は鈴木陽一先生というおじいちゃんで、本当に子供好きの顔をした、優しい方でした。。
 「千日の稽古をとし、万日の稽古をとす。 そして勝負は、その一瞬なり。」
 よく受験生を激励するときに贈る言葉ですが、これは、後に、その鈴木先生から頂いた色紙に書いてもらったものです。。
 13歳 (中学1年生)
 碩田中学校に入学します。。すでに剣道少年と化しており、アタマはつるつるに限りなく近い「5厘刈り」でした。。(←今やったら、かなりコワイかも。。)当時は、岩切の「いわ」を逆さまにして、「わいちゃん」と呼ばれていました。。
 14歳 (中学2年生)
 剣道部の顧問のセンセイが担任のクラスになります。。柔道、剣道、空手、合気道、全部あわせて13段を所有する、「歩く人間凶器」みたいな方ですが、ものすごおぉく涙もろくて、人情味ある、あったかい人でした。。アポなしの家庭訪問に「いいちこ」を持ってきて私を酒漬けにした、豪傑です。。(笑)
 15歳 (中学3年生)
 この頃が、私の精神年齢のピークです。。(笑) 生徒会の役員をしていたことも手伝ってか、学校内でいちばん話の合う人間は、当時の校長先生でした。。(笑) 趣味も「古好み」で、手にする鞄は、校長先生が普段抱えているものとよく似ていた気がします。。司馬遼太郎の「龍馬がゆく」が愛読書でした。。 
 16歳 (高1)
 合同選抜制度最後の年に行われた高校入試で、普段取ったこともないようないい点を取ってしまい、第1志望校(←上野)ではなく、当時ほとんど存在すら知らなかった鶴崎高校へと進学します。。
 毎朝、片道8.5kmの道のりをママチャリで爆走していました。。
 ただ、今になって思えば、そこでしか知り合うことのできなかった素敵な仲間たちがいます。。最高の「結果オーライ」だったんですね。。運命に感謝♪ 
 このへんから、「いわさん」と呼ばれることが多くなります。。ちなみに、英語は「高校デビュー」でした。。(笑)
 17歳 (高2)
 剣道から空手に転向します。。極真会館は、今でこそあんなにメジャーですが、私が通っていた道場は資金繰りが厳しかったようで、大洲総合運動公園かコンパルホールを借りて稽古していました。。
 当時は反抗期の最たるときで、「授業料やお小遣いなどとひきかえに忠誠は誓えない。」という意のもと、(学校から)禁止されていたアルバイト(つっても、新聞配達なんだけど)をしながらの苦学生活(笑)でした。。前の晩に下段蹴りをもらった足をひきずりながら、小脇に新聞を抱えて、早朝の町を駆けめぐっていた臥体のいいおにーちゃん。。ちょっとヤンキーがかってましたが、あれは、私です。。(笑)
 18歳 (高3)
 北九州予備校の夏期講習に参加します。。ただ参加するだけではツマラなく思えたので、大分からママチャリで小倉まで行くことにしました。。小倉に着けば、おばあちゃんの妹さんが宿を貸してくれることになっていました。。おばあちゃんに告げてしまえば、「心配やけんダメ。」と言われるのがわかっていたので、「んじゃ、今から小倉行って来るわ。」とだけ言い残して、127kmの道のりを、途中、宇佐のあたりで温泉につかりながら8時間ほどかけて小倉入りを果たしました。。到着するころには、おしりのあたりがすり切れて、ずっと「立ちこぎ」を余儀なくされていたのを覚えています。。バカでしょ。。(笑)
 19歳 (大学1年)
 大学進学のため、かねてから憧れていた土地、横浜へやって来ます。。国際的なジャーナリストになりたい一心で、いちばん興味のない経済学部・国際経済学科を選びました。。センター試験と2次試験の比率が400:400で、2次試験の学科が「英語のみ」というところが、いちばん惹かれた理由だったようにも思えるのですが、これは大失敗でした。。やっぱり、勉強てのは、「やりたいからやる」のがイチバンなんですね。。
 結局、4年間かけて、「自分がいかに経済に向いていないニンゲンなのか」ということを思い知らされる結果となってしまいました。。
 卒論のテーマも、「世界宗教が資本主義経済社会に与えた影響について」なぁんてゴマカして、自分の土俵以外での闘いを避けちゃいました♪ うっちゃり。。
 20歳 (大学2年)
 家庭教師を始めました。。高校生の英語です。。教えているうちに、「ん? これってもしかして自分に向いてる職業なのかも?」という感覚がわき上がってきたのを覚えています。。経済そっちのけで、再び英語に対する情熱を押さえることができなくなっていました。。このころから、「こっそり留学しちゃえ!」と常々考えるようになっていました。。
 でも、お金ないのねん。。
 21歳 (大学3年)
 人並みの「遊び」は覚えておかなくちゃ、と趣味に走ります。。ギターにビリヤードにバイクにお料理に。。カラオケも毎晩のように、「誘われれば断らない」日々が続きます。。中・高時代の大きな反動からか、「フマジメぽいのがカッコいい」という妙な勘違いをしている時期でした。。
 恥ずかしながら、この当時は不良学生を気取ってまして、目が覚めるのがだいたい日没の前、「あさ天」見てからでないと寝れない。。(笑)という、夜行性のイキモノと化していました。。
 「俺は世界標準時で生きてるんだ。。」と豪語していましたが、とんだ親不孝者です。。まったく。。(笑)
 22歳 (大学4年)
 この頃になって、ようやくサークル活動らしいことに参加しました。。グラウンドでキャッチボールをしていたときに、Dangomushiという、超強力ソフトボールチームからナンパされたのがきっかけでした。。(笑)
 ここでも多くの大切な仲間と知り合うことができて、非常に感謝カンゲキしています♪
 同時に、周囲の就職活動を横目に、ひとり、マイペースで留学の準備を始めます。。といっても、食う金に困る貧乏学生でしたから、TOEFLのためのお勉強をするので精一杯です。。
 でも、夢はあきらめきれずにいました。。そんなある日・・・。。
 23~25歳 (社会人)
 「安月給で暇も金もないけど、留学させたげるから来ない?」という知らせが大学の厚生課にあるという話を聞きつけ、応募してみたところ、なんと0.33倍のスゴい倍率の中から(笑)(←3人枠に応募してきたのが私だけだったそうです)見事選ばれ、晴れて英語のセンセイとしてLondonの地を踏むことに成功しました。。
 Hinoki International School London Ltd. という、在英日本人の小・中・高生を対象にした進学塾における勤務の始まりです。。

 行ってみると、本当に、正真正銘の「貧乏暇なし」生活が待っていました。。(笑)

 留学先は、ロンドンの秋葉原とでも言えるような街、Tottenham Court Road にある Central London College という学校です。。
 ただし、「留学」は「留学」なんですが、規模は「駅前留学」と変わりません。。(いや、それ以下かも・・・。)おまけに、そこで教わる内容なんですが、「はい、じゃー、今日は過去進行形についてお勉強しましょう♪」なんてノリで、ヲイヲイ状態です。。まともな英語を話しているのは、アルバイトで雇われてる現地人講師のおにーちゃんだけでした。。
 それでも、3日は通ったのかな?(笑) 当然のことながら、2度とそこに足を踏み入れることはありませんでした。。o( ̄ ^  ̄ o) プィッ!

 せっかく本場の英語をモノに出来るという絶好のチャンスに恵まれながら、私は語学学校を捨てる決意をしてしまったのです。。(あとから聞けば、この学校は就労ビザが取れない人間を、学生ビザとして雇い入れるためのカモフラージュだったそうです。。)
 本場の英語は、Green Park という地下鉄の駅のそばにある The Palm Beach Casino Club でお勉強させてもらいました。。(笑) だから、私のしゃべるイギリス英語は、カジノ仕込みのやくざものです。。(笑)
 
 でも、イギリスはよかった。。 そこで家族同然に接してくれた職場のみなさんや、かわいいガキんちょ達に囲まれて、私はタマシイ的にとてもとてもとても浄化されました。。大学のときに上京して以来、慢性人間不信に陥っていたココロを、底のほうから癒してもらえました。。改めて、大きな声で、ありがとうを言わさせて頂きたいと思います。。
 26~28歳 (帰国後)
 キコクした後に待っていたのは、過酷な試練でした。。
 「いつか自分の手で学校を作りたいっ!」
 そのためには、資金が必要です。。引っ越しにかかった費用は、全額 Palm Beach から頂いていましたので問題なかったのですが(笑)、今の段階で自分にできることといえば、英語のセンセイをしながら、お金を貯めていくことしかありません。。そこで、某大手進学塾に売り込んでみることにしました。。
 
 結果はO.K.。。ただし、これは同時に経済危機のはじまりをも意味していました。。

 とにかく、お金がないっ! 

 よく人から「あの塾のセンセイなんでしょ!? だったら、すごいいいお給料もらってるんじゃない? いーよねぇ。。」なんてことを言われましたが、「すごくいいお給料」をもらえるのは、エラい立場にいる人だけです。。こんなところで愚痴っちゃうのはみっともないことなんですが、私のHPなんで、言いたいこと言います。。(笑) 
 年間23億円以上の売り上げを出す(もちろん黒字です。。)従業員120名程度の会社において、中途入社4年目の時点で、私は東京本部校の最上位コースを担当するまでの期待をかけられていました。。

 さあここで問題です。。(笑)

 私の月給、手取りでいくらだったでしょう?


 25万? いえいえ、とんでもない。。 

 んじゃ、20万? んー、もうひと息!

 え!?

 そう。。19万円ちょいだったんですわ。。(←なぜか、後から受付に入ってきたリクルート派遣の新人おねーちゃんのほうが高給取りでした。。(涙))
 首都圏の賃貸アパートに暮らす独身男性の身としては、致命的な数字です。。毎日、2時間超のサービス残業(←帰りの終電は23:47分発、帰宅時刻は25:00すぎ。。)と、1年間にわたる「休日無打刻出勤」つきで、夏期講習時には、授業時間給が、マクドナルドでバイトするおねーちゃんたちの時給を大幅に下回るというような状況でした。。

 この会社では、とってもいい先生と、とってもイジワルな先生にたくさん出逢うことになりました。。

 でも、大きな収穫も山ほどあります。。ここで知り合えた教え子のみなさんたちから、私は常に、励まされ、信頼され、大きな愛情を注いでもらいました。。
 「お前らのためなら何だってしてやる。。」
 そんな気持ちにさせてくれる、かわいい子たちばかりでした。。思えば、大学生のときからずーっと、私は生徒サンたちにはものすごく恵まれていたようです。。

 あちこちにいろんな言い訳をしながら(←全部あれもホントなんだけどね)辞表を提出しました。。

 去る2月、10年ぶりぐらいに激しい怒りがこみあげてきて、酒の席で社長と大ゲンカをしそうになったこともありますが、今となってはいい思い出です。。

 これまでの傾向から、きっと、1年も経たないうちに、すべてを許してしまうと思いますので。。もしこれをお読みの関係者の方がいらっしゃいましたら、私のことはそっとしておいてやってくださいね。。

 この会社では、今年の4月、ようやく若手社員の昇級があったそうです。。

 すこしでもあのとき社長と闘ったことが引き金となっていてくれれば幸いです。。みなさん、頑張ってくださいね。。
 
 29歳(前期)
 たまに目を疑いたくなります。。
 それは、銀行の預金残高の数字(←もちろんマイナスから始まってる。。)と、この年齢なんですが、思えば遠くへ来たもんだぁ♪ て感じですねぇ。。もう、おっちゃんの仲間やないか!

 んでもね。。

 何故か今はね、希望の光が見えてきてるんですよぉ。。

 人生、やりたくないことをやってる暇はない! って気持ちなのね。。

 環境的に3食自炊が可能な生活になったので、今現在は「安くておいしい」料理に目覚めています。。
 と同時に、もういちど身体を鍛えてみたくなって、たまにプールへ足を運んでは何キロも泳いでいたりもします。。
 コンピュータと、政治と、経済に興味を持てるようになりました。。
 毎日、本ばかり読んでいます。。おかげで、お金はほとんど使いません。。
 \1,500あれば、3日は余裕で食っていけます♪ 

 元教え子のみんなの顔を見れないのが寂しい限りですが、ここにお勉強に来てもらえればなぁ、と思ってHPを立ち上げてみました。。

 再就職先は、まだぜんぜん見つかっていませんが、私は楽観視しています。。(おめでたい奴ね。。)

 最近読んだ本の中に、次のような言葉がありました。。

'What would I do if I weren't afraid?'

 "Who moved my cheese?" (邦版タイトル:「チーズはどこへ消えた?」)という本の一節にある言葉ですが、何か心配ごとが出てきそうになるときは、いつもこの言葉を思い出すことにしています。。(この文って仮定法だよね。。訳してみ?(笑)>生徒のみなさん)

 とりあえず、これまでのところ、退職金をやりくりしながら借金のほうは順調に返済できていますので、また再就職できそうなときには、随時、ご報告させて頂きたいと思います。。
 29歳(後期)
 紆余曲折を経て、私は生まれ故郷である福岡市に戻ってきました。。
 思えば、18のときに家を飛び出して以来、長ーい家出だったのかなぁ、と思うこともあります。。
 いくぶん、翼のあちこちに大きな痛手を被ってはいるものの、それでも、ココロは青空の中にいます♪

 そして、また懲りずに(塾で)英語のセンセイをはじめることになりそうです。。
 明日、最終面接として、社長サンとお話をしてきます。。

 曰く、「ウチへ来て頂ければ、どう転んでも前の会社よりはお手当のほうは良くなるはずですから!」(♪)

 「若いときには買ってでも苦労をしろ!」と言いますが、かなりの額を費やしてますからねぇ。。。。(笑)

 さぁ、巻き返しを図んなきゃっ!

 夢と希望に満ちた暖かい雰囲気の中で、私はジンセイの再スタートを切るべく、前向きに検討中♪ です。。

 これまでに出会った、数多くの方々への感謝を忘れずに、私は「自分がいちばん好きでいられる自分」を再構築してゆきたいと考えています。。


 みんな、一緒に、頑張ろうね


 いわさんでした。。


 と書いたんですが。^^;
 4日しかそこにはいませんでした。

 ぶつくさは言いません。w

 あー大変だった。^^;
 
 37歳
 Atlantis英語総合学院のおにいちゃんとして、多次元授業はじめました☆

 すぴこれ。と連動して、夏期講習のプリントとかいっぱい作りました。

 会場には、透明な人がいっぱいいたので。^^;(オバケでした。)

 おうちで「シャチくん1号。」にAtlantis宇宙を作って授業やったり、Harvestに教室作ってやったりしました。
 38歳~43歳
 前厄までに劇症膵炎やりました。w

  「ご家族の方を。」って言われて。^^;

 「ストーリー上、ここで死ぬことはないだろう。きっと治る。治してやる!」って思ったのを覚えています。w

 γ-GTP1366 over。(成人男子の基準値は5~50までです。)

 ノルマンディー征服と名付けました。w

 激痛かったです。死ぬかと思った。^^;

 そして、41歳で風邪こじらせて激辛い肺炎になりました。^^;

 30日くらい熱と咳と痰に苦しんで。

 なんとか37℃台まで戻して。

 病院に行く前にだいぶ治しました。w

 (だって。症状的に、ぜったい禁煙が絡むと思ったんだもん。w 「一生煙草吸えなくなるくらいなら煙草吸って死んでやる!」って思って。w 必死になって熱を下げました。)

 病院で抗生物質もらったら。

 5日で治りました。w

 で。

 もっかい、劇症膵炎(自宅療養only)やりました。w

 病院に入ったら、一生禁酒確定。w

 バレてもマズかった。^^;

 自分で治すに決まってるよね。w

 ①Angelic Android。②SET GAMMA FREE。③θ。Remedy。「はやくよくなぁれ。」④フサンとミラクリッドを(文字で)投与!⑤あとは全部溶けてからRebuild。w

 全部(膵臓が)溶けきるのに。

 8時間くらいかかりました。w

 そして再物質化。(膵臓を。)

 あー痛かった。^^;
 
 46歳。(たったいま。)
 Atlantisのおにいちゃんとして活躍中です。^^

 教室はないです。w あえていうならHP上。(すぴこれ。にリンクがあります。)

 カメラ(EOS 8000D)を買ってから、写真も始めました。^^

 masato style日々更新中です。

 masato styleで日々の日記を綴っています。

Atlantisの

Spiritually Correctの